○批評の地平(1)○< 批評の地平 >批評については、ああでもない。こうでもない。とは思いながら、 他者に厳しく、自分には徹底的にあまいところに、いる。すまん。 というのも、制約がないところからきている。のだ。<枷>を。と。 思う。つまりこういうことなのだ。「自由」とは、即「不自由」、 などという訳知り顔の<日本的分別>が、でてしまう。これではい かん。ちょこ、ちょこと。触れている。<自由>という、脱皮状態。 脱構築でもいいが。それを、<対象化>する、批評というもの。そ の視点との<関係性>のことだ。いまは、<散文的に> ずらずらと、 書き記しているが、それではすまない。他者に厳しく。云々と記 すのは、この意なのだ。 ○極端な話。<世阿弥の墓> を建立する一休宗純。かれらの<関係> や、それぞれの志向した<境地>。それらの認識は、いかん。とい うようなことだ。それなくして、一休が<墓>を立てた。では、済ま ないのだ。直截に言及しなくとも良いが、判然とできるだけのも のは残す、表す、必要がある。禅。ひとつとっても、難しい。臨 済と曹洞との<差異> は。道元が、J・デリダなどにも強い関心を もたれていた理由は。などということを、とりあえずは触れて欲し い。のだ。その解釈は、<自在>なものだ。それを愉しみとしたいも のだ。(中) ○極端な話、最近読んでいるものに<収斂>がある。<スノビズム> のことで、「反」というネガティブ性が、それらを形成してきた とするものだ。この<系譜>に、(論理の流れに) ■ヘーゲル、A・コジェーヴの影響を。 ■・・・バタイユ、など。 ■西田幾多郎。(鈴木大拙がいる) ■例の1941年当時からの、<近代の超克論> ■オギュスタン・ベルクへと。 ○こうした<系譜>が、侘びの世界構築してきたとする。 が、わたしは、判然としない。だけでなく、それほど安直でもない。 と、思う。そこにいるのが、 ■「一休宗純」であり、 ■「世阿弥」であり、 ■「本阿弥光悦」となる。こうした論拠の追究自体が、<中世の魅力> そのものになる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ジャンル別一覧
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